夜ごと空ごと
第五夜 小屋

 暗い室内に浮かびあがる四角い光のなかで、人が歌っている。こちらを向いて座って、弦を鳴らして声をあげている。まるでこの部屋に歌いにあらわれたみたいだ。初めて見る無観客のライブ配信は、ホームコンサートのように親密だった。
 これまで数々のライブ映像を見てきて、心を動かされたときほど、自分がそこにいないことが惜しまれた。音だけでなく熱や光や振動を、演者と観客が分かちあう。満ちたりた空間を部屋で眺めている私は、遅れてきたよそ者にすぎない。
 今回の配信はアーカイブで、すでにライブは終わっているのに、いま目のまえで歌っているようにきこえる。小さな山小屋のような会場は、この部屋から地続きに見える。こんなに近くで歌ってくれてる、とドキドキしてしまう。
 新しい様式のライブを喜んでいることが、どこか後ろめたい。お客さんがいないから、ライブハウスらしくないから親密だなんて。歌い手は望んで無観客で歌っているわけじゃないのに。
 そうか、すばらしいのは様式ではなく歌い手なのか。目のまえにいない人に届けるために、新しいことを試してくれて。まぢかに感じるのはこの人だからだ。私のために歌っていると、だれもが思わせてくれるわけじゃない。
 最後まで見て、翌朝またはじめから再生した。昼間はまわりがうるさくてきこえなくても、くり返し流しつづけた。もはや画面が光っているだけでも安心できる。星がそこにあると知っているだけで。
 思えば、ライブハウスにいても自分はそこにいないと感じることも多かった。雰囲気になじめなかったり、音が合わなかったり、腰が痛かったりして。いてもいないこともあるし、いなくてもいることもある。いないのに見える顔が、きこえる歌がある。再生期間が終わったあとも、ずっと光っている。

illustration: Takafumi Sotoma