彼女がわらう、うつわの中で。
                    text : 外間隆史  photo : 安部英知

東恩納美架のつくるやきものを誰もが「絵みたいだ」と思う。
事実、私は彼女の器を絵のようにそこへ置き、壁に架け、椅子に座って眺めている。
もう四年、そうやって多くの時間を過ごしてきた。
彼女の作品とはかつて宜野湾にあったカフェではじめて出会う。
麻ちゃんがつくる生命力あふれる料理に顔じゅうの皺を伸ばしきったあとのデザートを平らげ、空になった平皿と対峙した。
行儀のわるさは承知でその丸い皿を写真に収めないわけにはいかない。
しかしこのときたった一度のシャッターをきらなければ、以後私が東恩納美架に会うことはなかったのかも知れない。

ひとの記憶はあてにならない。
東京へ帰った私はビーチや辺野古でのスナップをそこそこに眺め、幾度となくその皿の写真に目を落とすことになった。
絵を観るための目だ。
カフェの庭に落ちていく日差しのとろっとした睡たさにだまされたのではない。
どう眺めてもその皿は、常々自信をもてずにいる私の記憶能力の不確かさを打ち消し、直感の正しさを示してくれていた。
彼女の皿は、絵なのだ。

その一枚の写真を、当時偶々デザインしていたCDジャケット*に載せようと思いついた。
「食」がテーマだったこの音楽に、空になった皿の写真がよく馴染んだ。
ラフをつくり終え、これしかないと確信してすぐに宜野湾へ電話を入れた。
写真を撮った行儀のわるさを詫び、更にその写真を売り物のCDジャケットに使いたいと許可を申し出る。
「ウチは問題ないですがあのお皿は作家モノなので作家さんの許可をとりましょう」
麻ちゃんはてきぱきそう言うと作家の名前をおしえてくれた。
その5分後にはもう、私は東恩納美架という陶芸家と話をしていた。
渋い作風からは想像もできないほどかろやかに弾む、ゴムまりのような声。

私が好む画家の絵はいつもくずれている。
それは画家の技法であると同時に、自らの厳しさに抗うためのあいまいさでもある。
アンチーブの画家のアトリエに東恩納美架の花器を置いてみよう。
画家は長身を屈め、目を細めて言うだろう。
「時にはもろもろの願望が最高の一致をもたらすはずだ……」**

だからと言って彼女の器を観賞用として壁に貼りつけているばかりではない。
とくべつな日にはそれらを食卓へはこび、かりかりとやきものの音を心地好く響かせながら食事をたのしむ。
かろやかに、東恩納美架が器の中でわらう。


*笹子重治『ONAKA-IPPAI』ジェマティカ・レコーズ RSCG1049
**『ニコラ・ド・スタールの手紙』大島辰雄 訳編(六興出版)「アトリエの断想」より引用

表題『キラミカ』:デンマーク語の「Keramik(キラミク)=陶器」に「a」を付けたら東恩納美架のきらきらした眼になった。